|
嵐牛は 通称 伊藤清佐衛門豊蔭 といい、
寛政10年佐野郡汐井河原(現 掛川市八坂)に生まれた。
家は農業で鍛冶を兼ねていた。
幼い頃から家業に励み俳諧を好み、三河 岡崎の青々卓池の門に入門した。
33才の時、掛川市伊達方の石川依平に和歌国学を学び、
さらに博覧多聞諸学を深く学んだので、語法仮名遣いの正確さは
当時の俳人の遠くに及ばない処だった。
毎日家業の鍛冶に専念しながら俳句を勉強し、門人に教え財を成した。
屋敷内の柿の落ち葉を拾い集め、それに句を書いたという。
嵐牛は、天保半ば頃から俳句を門人に教え、入門者は
東は金谷宿から西は磐田郡二俣にまで及び、入門者は多かった。
依頼による句会への出席は100回以上に及び、
直接指導による門人は300人以上に達すると推察される。
嵐牛に教えを請う人が常に門に満ちていたという。
安政4年、柿園に集まった人々の俳句を添削せずにまとめて
「そのまま集」と名づけて刊行した。
5編迄は嵐牛門人の句が記載され、第6編は門人の他に
他流の俳人も含む友人、孫弟子等の句が記録されている。
嵐牛は晩年を長子洋々に譲り、屋敷内に別室を設けて移り 柿園 と号した。
晩年、白童子と号し柿園は長子洋々が継ぎ、 白童子 は門人松嶋十湖に譲った。
明治9年5月28日78歳にて歿す。法名を 柿園嵐牛居士 という。
以上は 玄孫 伊藤鎌次郎 とその妻 伊藤ほみ による
|