嵐牛 蔵美術館      RANGYU MUSEUM OF ART

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白川田植え歌 箱軸

芭 蕉 ・ 曽 良 ・ 等 躬 の三枚から成る

 

 

 

芭 蕉 (軸 右)

4月22日午前9時頃 等躬邸に到着(曽良の手帳より) 

 

 

芭 蕉 (軸 右)について

解 説

 

みちのくの名所〃心におもひこめて

 

先ず関屋の跡なつかしきまゝに

    

ふるみちにかゝりて今の白川も

    

こへぬ(やが)ていはせの郡にいたりて

    

乍単斎(さたんさい)等躬子の芳扉を

      

(たたく)彼陽関の出て故人に逢うなる

 

 

風流の初やおくの田植うた    はせを

 

いちこを折てわかまうけ草     等 躬 

 

水せきて昼寝の石やなをすらん  ソ 良

 

(びく)(かじか)の声生かす也       はせを

 

一葉して月(やく)なき川柳        躬 

 

(ゆい)にやねふく村()秋なる      良

 

 

 

○ 頓て・・・・・やがて

 

○ 乍単斎・・・さたんさい

          相良等躬 の別号

 

○ 扣  ・・・・・たたく

 

○ 陽関・・・・・漢詩 

         白川の関を陽関にたとえている

     いちご・・・野盆子(いちご)

         野生のいちご

 

     もうけ・・・もてなし・供応のための食事などの用意・したく

 

     穌(かじか)

櫨(ハゼ)に似て頭が大きく背は暗灰色で黒い縞がある。2〜5月産卵期に石の下に卵を産み雄親が保護する。鳴くと言われるがこれは住むところが同じなので河鹿(かじか)と混同されたため。

 

     一葉(散る)

普通桐にいうが柳にも用いる

 

     雇(ゆい)・・・日雇

農村などで、互いに他の手助けをし合い労力を提供すること。

 


 

 

 


 

曽 良 ( 軸 中 )

24日、田植えの祝い事があり、その席で曽良が感想を書き留めておいた。

この句に対し芭蕉が脇をつけ、等躬が第3のつけあいをしたが、完成に至らなかった。

 

 

曽 良 (軸 中)について

解 説

 

乍単斎主はせをや

 

とし侍りて歌仙之俳

 

諧一まきもよほされける

 

に我もそのしりへに

 

したかふ此日や田植の日

 

なりとめなれぬことふき

 

なとありてまうけせ

 

られ侍りけれは 

 

                 曽 良

 

旅衣早苗に包食乞(つつむめしこわん)

 

乍単(さたん)・・・相良等躬の初号

 

歌仙(かせん)・・・和歌の三十六歌仙に因んで三十六区から成る連歌・俳諧の形式。

      芭風以来俳諧の代表的形態となった。

      二枚の懐紙を用い、初表(しょおもて)六句、初裏十二句、名残表(なごりのいもて)十二句、名残裏六句と、以上三十六句続ける。

      又、十八句で終わるものは半歌仙という。

 

まく・・・・巻・捲

     俳諧の付合(つけあい)をすること。

 

 

     句意

田植祝の御馳走によばれたが、我々は

乞食行脚にふさわしく、早苗に包んだ飯

でも貰おうの意。

 


 

等  躬 ( 軸 左 )

麻生磯次氏の本によると5月1日となっている

 

等躬 ( 軸 左 )

解 説

 

此二子我草屋に莚しき」しはらく物

 

 し給うほとに馴し武蔵のむかし〃

 

 より今の心の奥のゆくりなき事

 

 語るまゝに安積郡浅香山あさかの

         

 沼は(ここ)よりいづくの渡りにかなとた

 

 つね給ふ浅香山は日和といふ駅

 

 を越えて一里塚あなるみきりにて

 

 侍る浅香の沼はあやしけなる田の

 

 溝なとを今は申めるにそいにしへ

 

 藤中将の伝へられし花かつみの

 

 草のゆかりもいつれのなにとしる人

 

 さふらはずと答なから

 

 (ふき)やうをまた          等躬 

 

       習ひけりかつみ草

 

     元禄弐年

         卯月下旬

 

     此二子・・・芭蕉・曽良をさす。

 

○ かつみ(ぐさ)・・植物真菰(まこも)の古名。

         花がつみ、とも。沼地に群生する多年草。

 

     元禄二年・・1689年

 

○ 卯月・・・・・・陰暦四月。

 


 

 

等  躬

相楽氏。又中畑氏。隈井氏。通称伊左衛門。

初号乍憚。別号一瓜子。乍憚(単)斎。晩年は藤躬と書。

正徳五年(1715)11月19日歿。享年78。

 

奥州須賀川の人。宿駅の長であったという説もある。

俳諧は石田未得に学び、のち岸本調和を宗とした。

延宝(1673〜1681)の頃、江戸に在って芭蕉を知り、

奥の細道行脚の際は自宅を提供して数日間滞在させた。

(元禄2年3月27日、奥州・北陸行脚に旅立つ。9月6日、美濃大垣を出て伊勢に向かう。)

 

曽  良

岩波庄右衛門正字(まさたか)。のち河合惣五郎を通称とした。

慶安2年(1649)生。宝永7年(1710)5月22日歿。

 

信濃国上諏訪に生まれる。

若くして上諏訪を離れ伊勢国長島の大智院の住職叔父秀精法師を

頼って長島藩(松平)に仕官、致仕(延宝4・5年から天和2・3年頃までの間)

して江戸に出、吉川惟足(きっかわこれたる)に神道・和歌を学び、

貞享2年(1685)ごろまでには芭蕉の門に入った。

貞享4年8月芭蕉の「 鹿島紀行 」の旅に随伴し、

元禄2年(1689)3月、「 奥の細道 」行脚を思い立った芭蕉に随行。

宝永6年(1709)将軍家宣が諸国に巡国使を派遣するに際し、

曽良も本姓名に返って随員に加えられ、

壱岐に赴いた際病を得て生涯を終えた。

弓術・医術の心得もあった。

 

 

 

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