| 三十六 俳 仙 とは |   | 
   
    | 1. 其 角 ( きかく ) |   | 
   
    | 榎本氏。のち宝井氏。名侃憲。通称八十八・平助・源蔵・源助などと伝える。 別号螺舎・狂雷堂・狂而堂・六蔵庵・・宝普斎・螺子・普子・渉川など。 寛文元年(1661)生。宝永4年(1707)2月30日(一説 29日)歿。 父は竹下氏。医を草刈三越に、儒を服部寛斎に、詩・易を円覚寺大巓和尚に学ぶ。 延宝初年 芭蕉の門に入る。 |   | 
   
    | 2.  嵐  雪  ( らんせつ ) |   | 
   
    | 服部氏。幼名久馬之助。長じて俗称孫之丞ついで彦邊兵衛。春助はその名乗。 嵐雪の号は「 花さそふ嵐の庭の雪ならで 」の古歌に基づくという。 別号嵐亭治助・雪中庵・寒蓼堂・横落庵・不白軒・石中堂・玄峯堂・良香(画号)。 承応3年(1654)生。宝永4年(1707)10月13日歿。 江戸湯島の生まれ、寛文年間父の縁によって、新圧隠岐守に仕え、のち井上相模守に仕えた。 芭蕉門。   |   | 
   
    | 3.  凉  莵  ( りょうと ) |   | 
   
    | 岩田氏。名正致。称権七郎。初め団友、のち団友斎を別号とし、また神風館三世を継いだ。 享保2年(1717)4月28日歿。59歳。 伊勢の神職。蕉門に帰したのは芭蕉の晩年と推察される。 伊勢派の基礎を築いた。支考と親交があった。 |   | 
   
    | 4.  曽  良  ( そ ら ) |   | 
   
    | 岩波庄右衛門正字(まさたか)。のち河合惣五郎を通称とした。 慶安2年(1649)生。宝永7年(1710)5月22日歿。 信濃国上諏訪に生まれる。若くして上諏訪を離れ伊勢国長島の大智院の住職叔父秀精法師を 頼って長島藩(松平)に仕官、致仕(延宝4・5年から天和2・3年頃までの間)して江戸 に出、吉川惟足(きっかわこれたる)に神道・和歌を学び、貞享2年(1685)ごろまで には芭蕉の門に入った。 貞享4年8月芭蕉の「鹿島紀行」の旅に随伴し、元禄2年(1689)3月、「奥の細道」 行脚を思い立った芭蕉に随行。 宝永6年(1709)将軍家宣が諸国に巡国使を派遣するに際し、曽良も本姓名に返って 随員に加えられ、壱岐に赴いた際病を得て生涯を終えた。 弓術・医術の心得もあった。 |   | 
   
    | 5.  許  六  ( きょろく ) |   | 
   
    | 森川百仲。通称五介。別号五老井・蘿月堂・風狂堂・碌々庵・菊阿仏・無々居士・潜居士。 明暦2年(1656)生。聖徳5年(1715)8月26日歿。近江彦根藩士。 俳諧は初め季吟流に学び、のち常炬門に遊んだといわれている。 絵画・漢詩に親しんでいたが、30歳頃相次いで両親を失い、心中の楽しみを求める道の 一つを俳諧に見いだしたという。 蕉門に入ってから尚白・其角・嵐雪の指導をうけた。  「 十団子も小粒になりぬ秋の風 」 |   | 
   
    | 6. 野 水 ( やすい ) |   | 
   
    | 岡田氏。佐次右衛門。名幸胤(行胤とも)。宜斎(茶道名)・転幽(隠居名)清洲越の名家。 屋号備前屋。名古屋大和町住。呉服屋。 寛保3年(1743)3月歿。86歳。 初め貞門。のち蕉門。俳人としての門出は延宝・天和の頃。 |   | 
   
    | 7.  尚  白  ( しょうはく ) |   | 
   
    | 江左氏。幼名虎助。字三益。別号木翁・芳斎。 慶安3年(1650)生。享保7年(1722)7月1日歿。大津柴屋町の医。 儒学は古義堂門。俳諧ははじめ貞室に、高政・常炬に親しく、原不トに従う。 貞享2年(1685)旅中の芭蕉を迎えて入門。近江蕉門の長老。 |   | 
   
    | 8.  李  由 ( りゆう ) |   | 
   
    | 河野通賢。字買年。釈名亮隅。別号四梅廬・盂耶観・月沢道人。寛文2年(1662)生。 宝永2年(1705)6月歿。 近江犬上郡平田村月沢の光明遍照寺第十四世住職。 蕉門。許六と親しく共著もある。 |   | 
   
    | 9.  杉  風 ( さんぷう ) |   | 
   
    | 杉山氏。通称藤左衛門・市兵衛。別号採茶庵・茶庵・蓑翁・蓑杖・五雲亭、隠居して一元。 正保4年(1643)生。享保17年(1732)6月13日歿。 江戸小田原町杉山賢永(俳号仙風)の長男。賢永は攝津今津の生まれ。 家は幕府に魚類を納める、いわゆるお納屋を営み、屋号を鯉屋と称す。 芭蕉東上と共に入門。芭蕉の新風開発の基礎を固め土台を築いた功労者であり、 常に芭蕉のパトロンとして援助した。 |   | 
   
    | 10.  知  月 ( ちげつ ) |   | 
   
    | 智月。大津の天馬役川井佐衛門の妻。乙州の母。貞享3年(1686)夫と死別し尼となる。 元禄3・4年は芭蕉を家に迎える機会が多く、芭蕉から『 幻住庵記 』を形見に贈られる。 宝永3年(1706)歿の説もあるが、同5年頃には存命。 73歳か75歳くらいで歿。   |   | 
   
    | 11. 千  那  ( せんな ) |   | 
   
    | 三上氏。名明式。号蒲萄坊。初め千那堂官江。 慶安4年(1651)生。享保8年(1723)4月27日歿。 近江堅田真言福寺十一世住職。法橋権律師。初め談林、のち蕉門。 宝永5年(1708)宗祖の遺跡を巡拝。 |   | 
   
    | 12. 桃 隣  ( とうりん ) |   | 
   
    | 天野氏。通称藤太夫。別号太白堂・呉竹軒、晩年は桃翁。 享保4年(1719)12月9日歿。81歳。伊賀上野の人。 元禄9年3月、芭蕉の三回忌に追善法要を営むのみで満足せず、奥の細道の足跡をたどり 「陸奥鵆」(むつちどり)を著わした。 |   | 
   
    | 13. 凡  兆  ( ぼんちょう ) |   | 
   
    | 野沢氏。(又、宮城氏・越野氏・宮部氏とも) 名は允昌か。医名達寿。 別号元禄3年初め頃まで加生、晩年は阿圭。 正徳4年(1714)春歿。享年不詳。 加賀金沢の人。京に出て医を業とす。元禄元年頃から蕉風に接近し、 同2年の「曠野」に入集。同3・4年在京中の芭蕉に師事。 |   | 
   
    | 14. 野  坡  ( や ば ) |   | 
   
    | 志太氏。本姓竹田。通称 弥助。別号野馬・樗木社・樗子・浅茅生庵(浅生庵)・ 無名庵・高津野々翁(無名庵野翁)・紗方斎・紗帽子・秋草舎・半錐醒堂その他五・六ある。 元文5年(1740)正月3日歿。78歳。 越前(福井県の東部)福井の商家に生まれ、江戸に出て越後屋両替店の番頭となる。 宝永元年(1704)大阪農人橋近くに移り、樗木社を結ぶ。 享保7年(1722)類焼、翌年高津に浅茅生庵を新築、又居を移して芭蕉の木曾塚の 無名庵の名をこれにつけ、無名庵高津野々翁と称した。   |   | 
   
    | 
  15. 荊  口  ( けいこう ) |   | 
   
    | 宮崎太佐衛門。諱。佳豊。大垣藩士。大広間番を勤め、 正徳2年(1712)致仕して東于と改む。 知行百石。勤仕52年。 享保10年(1725)歿。蕉門。許六評に「老功の門人」とある。 荊口の長男此筋(しきん)・次男千川(せんせん)・三男文鳥(ぶんちょう)蕉門。 |   | 
   
    | 16. 浪  化  ( ろうか )  |   | 
   
    | 晴寛。別号自遺堂・応々山人・休々山人・司晨楼主人。 寛文11年(1671)生。元禄16年(1703)10月9日歿。 東本願寺十四世琢如の異腹の子。十六世一如の弟。 7歳にして越中井波瑞泉寺十一代住職となる。元禄7年落柿舎で初めて芭蕉に会す。 これより先一族は季吟の門流で、後年去来と親しく、長子桃化も俳諧をよくし、支考に師事。   |   | 
   
    | 17. 去  来 ( きょらい ) |   | 
   
    | 各務氏。別号東華坊・西華坊・野盤子・見龍・獅子庵など。 変名、蓮二房・白狂・渡部ノ狂等。諡号梅花仏。 寛文5年(1665)生。享保16年(1731)2月7日歿。 美濃山県郡北野の人。父は村瀬氏または村瀬氏所縁の人、母は渡辺氏。 支孝はその二男。6歳の時父を失い、母は村瀬忠兵衛に再嫁したため、9歳のころ居村の 臨済宗妙心寺派の道場大智寺の雛僧となったが、 19歳で下山、籍を次姉の婚家各務宗三郎の家に移して各務氏を称した。 元禄3年(一説に4年)大津の無名庵で芭蕉にまみえて蕉門の徒となる。 翌年芭蕉に随従して江戸に下り、薪水の労を助けた。 蕉門十哲の一人。   |   | 
   
    | 19. 土  芳  ( とほう ) |   | 
   
    | 服部氏。保芳。通称半左衛門。木津三郎兵衛保芳の三男。 伊賀上野の藩士。服部家の婿養子となり、養父と同じく内海流の槍術をもって仕えた。 貞享3年(1686)30歳で致仕。 俳諧は芭蕉に学び、初め芦馬と号す。 のち蓑虫庵に改め、元禄2年秋の頃芦馬を土芳と改めた。 極めて丹念篤実な人で、俳諧の筆録類は多かった。   |   | 
   
    | 20. 越  人 (えつじん・おつじん) |   | 
   
    | 越智氏。通称十蔵(又は重蔵)。別号負山子・槿花翁。 明暦2年(1656)生。歿享年未詳。 (元文4年3月刊の「梅鏡」に越人の後人の後序・詩所収) 北越の生まれ、のち名古屋に出て、野水の世話で染物やを営んで生計を立て、 杜国・重五らの庇護を受け、名古屋俳壇の連中に加わった。 貞享5年8月芭蕉の「更科紀行」の旅に伴している。   |   | 
   
    | 21. 露  川  ( ろせん ) | 
   
    | 沢市郎右衛門。別号霧山軒・鱛山窟・月空庵。伊賀友生の産。 名古屋札の辻(今の御幸本町6丁目)に住。数珠商。 寛保3年(1743)8月23日歿。83歳。 初め季吟・横船に学び、元禄4年(1691)蕉門に帰した。 露川の活躍は隠居した宝永3年(1706)以後の後半生である。 その間勢力の拡張と門葉の獲得とに狂奔して、行脚と撰集に浮身をやつした。   | 
   
    | 22. 惟  然  ( いぜん ) | 
   
    | 広瀬源之丞。別号素牛・鳥落人・湖南人・梅花仏。 正徳元年(1711)2月9日歿。60余歳。 美濃(岐阜県南部)関の人。芭蕉門。 元禄3年以後おおむね芭蕉に隋侍、薪水の労に服した。   | 
   
    | 23. 猿   雖 ( えんすい ) | 
   
    | 窪田氏。惣七郎。伊賀上野住。商。内神屋(うちのかみや)の初代。 宝永元年(1704)11月10日歿。65歳。 芭蕉より4歳年長であるが格別の親交があった。 元禄2年(50歳)剃髪して法号を意専という。   | 
   
    | 24. 曲  翠 ( きょくすい ) | 
   
    | 菅沼氏。定常。通称外記。馬指堂と号し、初め曲水。 元禄6年(2月頃)あたりから曲翠と書く。 膳所(大津市)藩士。蕉門。芭蕉・曲翠の交渉は極めて親密で、芭蕉書簡中、曲翠宛のものは数も多い。   | 
   
    | 25. 正  秀 ( まさひで ) | 
   
    | 水田氏(一説に永田氏か)。通称孫右衛門。膳所藩士。竹青堂と号す。 享保8年(1723)8月3日歿。67歳。俳諧は初め尚白にのち芭蕉直門。 『ひさご』の有力な一員で義仲寺内に無名庵を建てるなど芭蕉のために尽くした。 芭蕉の三回忌(元禄9年)の頃公職を辞し、伏見に移る。 数年後松本に住。医として立ち清庵と号す。諸家と風交が広い。   | 
   
    | 26. 嵐  蘭 ( らんらん ) | 
   
    | 松倉氏。名は盛教。通称甚兵衛。 初め板倉候に仕えて三百石を領したが、のち致仕して浅草に住。 元禄6年(1693)8月13日、月を賞すべく鎌倉に赴き、帰途病を得て、同月27日歿。享年47。 芭蕉に師事したのは延宝3年(1675)頃。 人物は誠実・清廉で芭蕉の信頼を得、他界に際して追悼の句文「嵐蘭ノ誄」を師からおくられた。   | 
   
    | 27. 酒  堂 ( しゃどう ) | 
   
    | 浜田氏。前号・珍夕・珍石。酒堂は洒落堂の略で、「深川集」以後用いた。 医を職としたという。俳諧はまず尚白に、次いで芭蕉に入門したことは、乙州・正秀・許六 に同じ。直接芭蕉の指導をうけたのは元禄2年(1689)ごろ。 元文2年(1737)歿。70〜80歳。   | 
   
    | 28. 木  節 ( もくせつ・もくぜつ ) | 
   
    | 望月氏。稽翁と号。大津住。医を業とす。 正徳(1711〜1716)初年歿。享年未詳。 大阪に芭蕉の病篤しと聞くや、急ぎ馳せつけて看護に尽くした。 芭蕉もまたその温厚な人柄を信じ、最期まで木節調合の薬を服したと伝える。   | 
   
    | 
 29. 北  枝 ( ほくし ) | 
   
    | 立花氏。一時土井氏を称す。通称、研屋源四郎。鳥(趙)翠台・寿夭軒。 享保3年(1718)5月12日歿。生年不明。 加賀小松に生まれ、後金沢に移住。兄牧童と共に研刃を業とした。 初め談林俳諧。元禄2年芭蕉の奥の細道行脚に会して牧童と共に入門。 芭蕉に従って越前松岡まで行を共にした。以後芭蕉とは再会の機を得なかった。蕉門。   | 
   
    | 30. 杜  国  ( とこく ) | 
   
    | 坪井氏。通称庄兵衛。号野仁(野人・の人)。名古屋の人。 御園町の町代を勤めた富裕な米商。 元禄3年(1690)3月20日歿。享年30数歳か。 蕉風初期の作家として力量のある一人であろう。   | 
   
    | 31. 素  堂 ( そどう ) | 
   
    | 山口氏。名信章。字は子普・又公商。通称勘兵衛。 別号来雪・松子・素仙堂・蓮池翁。又茶道の号に今日庵・其日庵。 寛永19年(1642)生。享保元年(1716)8月15日歿。 甲斐(山梨県)北巨摩郡教来石山口の生まれ。 江戸で林家について漢字を、京都では堂上家について和歌・書道を学んだ。   | 
   
    | 32. 乙  州  ( おとくに ) | 
   
    | 川井(川合)又七。だいだい庵・設楽堂と号す。伝馬役佐左衛門の息。 大津住。智月の弟でのち養子となる。 蕉門。初め尚白と親交があった。 芭蕉の幻住庵時代に指導を受け、また芭蕉の「梅若菜鞠子のとろろ汁」は 乙州の東武行の餞別吟で、芭蕉は乙州の新宅で越年し、自画像も与えた。 妻は荷月。正徳・享保の頃歿。   | 
   
    | 33. 如  行 ( じょこう ) | 
   
    | 近藤氏。大垣藩士。蕉門。貞享4年(1687)桐葉の紹介で入門。 早く武門を辞して僧となり、四方に漂流した。 宝永年中(1704〜1710)歿。   | 
   
    | 34. 苔  蘇 ( たいそ ) | 
   
    | 岡本正次。次右衛門と称す。元禄初年は木白(ぼくはく)と号し、別号瓢竹庵。 伊賀上野藩士。椿を愛した。 宝永6年(1709)3月3日歿。50余歳。   | 
   
    | 35. 舎  羅 ( しゃら ) | 
   
    | 榎並氏。百々斎・桃々坊・語雪堂などとも称した。之道(諷竹)門。 大阪の人。芭蕉が浪花(なにわ)の客舎に病んだとき、 呑舟とねんごろに介抱したことはよく知られている。   | 
   
    |   ※     三六俳仙とあるのに35人のみ。 内藤丈草脱。  研究者  塚本 翠子 先生 の 編纂 による  | 
   
    |  |  |  |  |